2018年9月13日放送の「爆報!THE フライデー」では、「にんげんだもの」を生んだ相田みつをの妻が書にまつわる衝撃の事実を告白するようです。

 

そんな相田みつをさんの嫁はどんな方で、どんな生活をしていたのでしょうか?

また、相田みつをさんの息子さんはどうなっているのでしょうか?

 

ということで今回は、相田みつをさんについて、

  • 相田みつをの嫁とは?生活は?
  • 相田みつをの息子・相田一人さんはどんな方?

気になりましたので、調べて紹介したいと思います。


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相田みつをの嫁・平賀千江の人生とは妻と息子・相田一人の生活?

相田みつをの嫁・平賀千江の生活

相田みつをさんは1954年に大きな商家の末娘であった平賀千江さんと結婚します。

相田みつを 嫁
(画像引用元:http://minakoro.com

そんな嫁の千江さんとは歌会で知り合ったそうですが、不器用で収入がなかった相田みつをさんとの結婚に周囲が反対されたようです。

それでも結婚し、一男一女をもうけております。

 

しかし、生活は困窮し家族四人は八畳一間で暮らしていたのですが、相田みつをさんは三十畳のアトリエを独占していたのです。

相田みつを 嫁
(画像引用元:http://www.hankyu-hanshin-dept.co.jp

そんな相田みつをさんの性格は、画商の菅原澄によると「人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐケンカになったり、女性に大層もてたりした」のです。

 

だから相田みつをさんはモテて平賀千江さんと結婚するが、三十畳のアトリエを独占していたりとわがままなのですね…

いかにも芸術家って感じですね…

 

そして、「にんげんだもの」がヒットする前までは、1955年ろうけつ染めを学び、書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てていたようです。

 

このように相田みつをさんの嫁は情報の限りではかなり振り回され、生活は困窮していたように見えます…

相田みつをの息子・相田一人とは?

相田みつを 妻
(画像引用元:https://cdn.mainichi.jp

生年月日    1955年9月2日
出身地     栃木県足利市

 

相田みつをさんの息子・相田一人さんは出版社に勤めていたらしく、その後に株式会社而今社を設立しています。

 

それから1996年に東京都中央区銀座に相田みつを美術館を開館、館長に就任しております。

 

その後美術館は、2003年に千代田区丸の内にある東京国際フォーラムに移転しております、

 

また相田一人さん自信も父の作品の監修に携わったり、1998年に著書「書 相田みつを」「父 相田みつを」を出版しています。

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相田みつを プロフィール

相田みつを 妻
(画像引用元:https://pbs.twimg.com

本名      相田 光男
生年月日    1924年5月20日
出身地     栃木県足利市
死没      1991年12月17日(67歳没)

 

旧制栃木県立足利中学校在学中に書や短歌、絵に親しんだが、喫煙の濡れ衣をきせられたため、軍事教練の教官に嫌われて進学を断念します。

 

卒業後は歌人・山下陸奥に師事し、1942年に歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学びます。

 

1943年に書家を志して岩沢渓石に師事して本格的に書の修行を積み、1953年3月には関東短期大学夜間部国文科卒業します。

 

書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に1954年から7年連続入選して書家として才覚を発揮します。

 

1947年の鄭道昭の臨書・「鄭文公碑臨書」で古典書道における実力を見せつけていましたが、書道の専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を持って「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになります。

 

それから独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立し、1954年に最初の個展を足利市で開催してその後は毎年足利市などで開かれるようになります。

 

1974年には教えを受けていた紀野一義のベストセラー「生きるのが下手な人へ」で紹介され、1984年には詩集「にんげんだもの」出版で広く知られるようになります。

 

特に「にんげんだもの」はその後ミリオンセラーとなり、1987年にはつづく第2詩集の「おかげさん」も約25万部のベストセラーとなって地位を確立します。

 

ところが、1991年に道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、脳内出血と診断され、それが原因となって急逝となりました。

相田みつをの嫁・平賀千江の人生が壮絶?妻と息子・相田一人の生活が芸術家らしい?

相田みつをさんはどうやらモテていたようで、嫁とは親に反対されながらも結婚していました。

 

それから三十畳のアトリエを独占したりと、いかにも家族をないがしろにする芸術家らしい生活をしており、嫁と息子さんは苦労してそうですね…

 

しかし、そういった思い出も今では良き思い出だからこそ、息子・相田一人さんは相田みつを美術館の館長として、父親の芸術を伝えているのでしょう。

 

せばな~