歌詞の「あんたあの娘のなんなのさ」が流行語になるほどのヒットをとばした宇崎竜童さん。

 

そんなロック歌手、作曲家で俳優でもある宇崎竜童さんは、実は30代のころから両耳の難聴に悩まされていたとのことです。

 

一体、なぜ難聴となり、そのためどんな苦労をされているのでしょうか?

 

ということで今回は、宇崎竜童さんの難聴になった理由と、それによる現在の弊害を紹介します。


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宇崎竜童 プロフィール

宇崎竜童 難聴
(画像引用元:http://abc1008.com

出生名     木村 修司
生誕      1946年2月23日
出身地     京都府京都市
学歴      明治大学法学部
ジャンル    ロック
活動期間    1973年 ~

 

コンサートに飛び入り参加したのがきっかけで、レコード会社からスカウトされた宇崎竜童さん。

 

1973年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成し、シングル「知らず知らずのうちに」でデビューをしました。

 

1974年には「スモーキン・ブギ」がヒットして、つなぎルックと共に流行で注目を浴びます。

 

更に1975年シングル「カッコマン・ブギ」のB面曲である「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒットします。

 

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の曲中の台詞セリフ「あんたあの娘のなんなのさ」は流行語にもなり一世を風靡します。

 

1980年にバンド名を「ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド」に改名しますが、1981年に解散します。

 

1984年には「竜童組」を結成し、日本国内にとどまらず、世界各地で活動をします。

 

1993年には元ザ・スパイダースの井上堯之と共に、「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」を結成し、「どちらかが死ぬまで続けよう」との約束で続けています。

 

作曲家として郷ひろみさんや山口百恵さん、田原俊彦さん等と各著名人に楽曲も提供しています。

 

また俳優、監督と幅広く活動をしているようです。

宇崎竜童が難聴?両耳がろう?

「補聴器を使うことにしたのは、人の声が聞き取りにくくなり、テレビの生放送で『えっ』と何度も聞き返したり、とんちんかんな答えをしたりして、『これはまずいな』と思ったからです」

実は30代のころから両耳の難聴に悩まされていた宇崎竜童さん。

 

特に高い音が聞きづらく、普通の会話が可能なぎりぎりのレベルで、補聴器なしでは相手に大声で話してもらう必要があるほどです。

難聴になった理由は?

宇崎竜童さんが難聴になった理由は、音楽活動や映画撮影時の「爆音」が影響したからとのことです。

 

昔は演奏や音楽ではイヤーモニターで音楽を聞き、演奏音など必要な音をバランス調整して聞くけます。

 

しかし、昔は爆音をそのまま聞いていたのです。

 

更に右耳は30歳頃、映画の銃殺場面の撮影で、体に仕掛けた火薬が、10発近く爆発した時から、「キーン」という耳鳴りが治らなくなったそうです。

 

そういった、何度もダメージを受けすぎて、音を感じる細胞が壊れてしまったとのことです。

 

音を感じる細胞は一過性なら回復するが、何度もダメージを受けると壊れるらしく、宇崎竜童さんの場合、加齢もあって難聴がすすでしまったようです。

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難聴に患った宇崎竜童の現在

「補聴器をつけたまま、音楽活動が出来るように進化してほしい」

「耳の機能をサポートしてくれるから『イヤーサポーター』。この方が使いやすいんじゃないかな」

宇崎竜童さんは補聴器を使っていますがあくまでも会話用に作られたものなので、音楽用に補聴器が進化することを願っているとのことです。

宇崎竜童 難聴
(画像引用元:http://blogimg.goo.ne.jp

また補聴器の普及に一役買おうと、補聴器に代わる新たな名称「イヤーサポーター」を提案しています。

 

これは「補聴器」という言葉だと、高齢者の道具というイメージが強く、嫌がる患者が多いためとのことで、考えたようです。

 

こうやって宇崎竜童さんは少しでも難聴であっても、生活の質を落とさないようにどうすればいいか、難聴者について考えています。

ろう者を考える!宇崎竜童が両耳が難聴でも活躍し続ける

音楽または俳優として活動し続けた宇崎竜童さんですが、その代償として耳に多大なダメージを負って難聴になってしまったようです。

 

しかし、それでも難聴という障害を超えて現在も活躍し続けています。

 

今後も昔と変わらず活躍し続けて、難聴者に勇気を与え続けてください!

 

せばな~